この本は僕にとっては衝撃的な内容でした。
以前、この本の後書きである『メイキング・オブ・勉強の哲学』を読んだのですが、本質的な部分を理解できていなかったことに気づきました。
目次はこんな感じです。
第1章 勉強と言語〜言語偏重の人になる〜
第2章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス
第3章 決断ではなく中断
第4章 勉強を有限化する技術
今回は、僕が特に面白かった「勉強とは詰まるところ何なのか?」ということと、「勉強するためにどうすればいいのか(勉強するためのツールか)」をお伝えします。
抽象的な内容を自分なりに解釈して話をするので、筆者の言いたかったことから逸れてしまうかもしれません。ご了承下さい。
勉強とは自由になることである。
ここでいう勉強というのは、何かの資格を得るための勉強だとか、大学に合格するための受験勉強だとかそういったことを示しているわけではありません。
そういった、ある意味外部の環境によって支配されている状況から脱却するために行うことが勉強です。つまり、どの環境にいたとしても、自分が言語を通して自由を獲得することが勉強なんです。
それは詰まるところ、自己の破壊にも繋がると筆者は言っています。
勉強の方法はツッコミとボケからなる。
まず、自分が勉強したいものを見つけたら、ツッコミを入れていくことが大事です。これはアイロニーと言われるものです。
しかし、アイロニーは上限みたいなものがあり、行き詰まることもあるので、そこに絶対を求めずに、ボケ(ユーモア)さを付け加えることが大事です。ボケとはつまり見方を変えることです。これこれってつまりこういうことじゃね?といった感じで自分の解釈を付け加えていくことです。それが正しいことではないにしろ。
そのようにして、ツッコミとボケを繰り返して思考を深めていく。
享楽的なこだわりに辿り着く
そして、繰り返した先にあるのは享楽的なこだわりです。つまり、自分がなぜ勉強を始めたか、何を目的に勉強を始めたのか、その自分自身が始めた理由、享楽を求めるポイントに辿り着きます。
この享楽的なポイントとは、言い換えるならば「ここまででいいだろう」という自分のラインであったり、「ここを知った時に快感を覚える」などといった、自分の経験や性質から来る非常に個人的なものです。
勉強すると最終的にバカになる
ただし、享楽的なポイントに辿り着き、そこで終了してしまったら、勉強の意味はなくなります。
それは詰まるところ、自分にとって都合の良い部分だけを取り入れた勉強になるリスクが高いからです。
苦手な範囲だったり、覚えたくないポイントだったり、そういったものを避ける傾向も享楽的ポイントの影に隠れているわけです。
そういったものを避けて、自分が享楽を感じることだけやっていることで果たして自分の自由性を獲得することや、自己破壊に繋がることになるのか?答えはノーだと思います。
そういう壁にぶつかった時に、その享楽的ポイントの起源や、自分の本質を見つめる作業が非常に重要です。
その自分を形どっていたものを崩していく、しんどかった部分にもアイロニカルに、つまりツッコミを入れていくわけです。
自分をふにゃふにゃに分解して、アイロニーとユーモアを通して、さらに勉強を深めていきます。
つまり、興味分野→アイロニー→ユーモア→享楽的ポイントにたどり着く→自分自身の解体→解体されたパズルを解くための分野の発見→アイロニー→ユーモア…といった感じに、自己を破壊しては積み重ね、破壊しては積み重ねを繰り返していくわけです。
こんなことを繰り返すと、きれいに形作られていた自己が、いびつな形となって未完成体として存在することになるわけです。
これを筆者は来たるべきバカだと言っています。
つまり、自分によって形作ることができたノリは悪いけど自由を得た人間の誕生です。
勉強するためのツール
勉強するためには、有限化することが重要です。キリがないですからね。
そのために、現代においてはEvernoteやOnenoteなどのアプリを用いて、自分が仕事や学校で使う科目と勉強用の科目を併用させることを勧めています。
僕の場合だと、GoodNoteを使うのがいいなと思っています。
勉強においては、ノートに経過を書くことで、ある程度自分で勉強したという状態を成立させながら、いつでその勉強を再開できる、そして、色々な方向の勉強を両立させることで新しいアイディアが生まれることがあるというわけです。
中断をすることにストレスを感じないことも重要です。中断とは、詰まるところ一応の勉強が終わった証にもなるからです。途中だからといって、勉強してないことにはならない。なぜなら勉強とは有限であり、仮固定をすることで成り立つものであるからです。